栃木県の小山市・開運のまちを歩いてみる

先日、栃木県の方にお会いした時、栃木県小山市が「開運のまち」と呼ばれていることも、その理由を知らなかったこともあり、なるほどあまりに地味だから知られていないんだな! と感じました。

 

というわけで今回は、実は歴史的に見ても貴重すぎる転換の場となった「開運のまち」小山について、歴女的な観点から書いておきたいと思います。

 

今から400年前の1600年の夏、徳川家康は上杉景勝を討伐するために福島県の会津に向かう途中、現在の栃木県小山市に本陣を起きました。この時、石田三成が挙兵したと報告が入り、急遽、徳川家康はこの場所で軍議を開きました。内容は「このまま会津まで行き、上杉を倒すか」それとも「道を引き返して石田三成を倒すか」という内容です。

 

徳川家康、徳川秀忠、本田忠勝、井伊直政、福島正則などなど、誰でも一度は名前を聞いたことがあるだろう当時の武将が小山に集まり、さてどうしようか、と会議をしたというわけです。

 

この時、ほとんどの武将が大阪に妻子を残している状態なので、一言でいえばかなりピンチという状況です。豊臣か、徳川か、という日本をふたつに分ける勢力のうち、どちらを支持するのか、という究極の選択がこの時、この小山で行われたんです。これが大河ドラマでも必ず登場する「小山評定」です。

 

(小山評定跡・小山市役所にあります)

 

結果、徳川家康率いる東軍は、石田三成を討伐するため道を引き返し、西へと戻り、関ヶ原へと足を進めました。そうして9月、東軍、西軍あわせて20万という大軍で、天下分け目の戦いが行われたのです。

 

徳川家康が江戸幕府を開き、300年もの太平の時代を築いた最初のきっかけは、つまり小山からはじまった、というわけです。なかなか歴史を感じる事件ではないでしょうか? とはいえ、東軍からみれば「開運のまち」ですが、大敗した西軍にとっては悲運のまちにもなるのかもしれません。

 

と、そういったこともあり、小山市は歴史的にもおもしろい街なんです。

 

その後、徳川家康は日光東照宮に祀られました。そうして江戸時代になると街道が整備されはじめ、多くの将軍が東照宮へと足を運ぶようになりました。その際、小山評定に習って小山に休憩所を設けました。それが「小山御殿」と呼ばれる場所です。

 

御殿そのものは現在まで残っていないんですが、今では広い公園になっています。ぱっと見ると何てことのない広場なんですが、土が高く盛られ、あきらかに周りの土地よりも高く造られているところに当時の面影を感じることができます。

 

ちなみに「小山」という地名は、平安時代からずっと小山です。
そして小山を400年という長きにわたって統治していたのが「小山一族」なんですが、これは日本で一番古いクーデター「大化の改新」で活躍した中臣鎌足(なかとみのかまたり)の子孫です。

 

中臣鎌足はのちに「藤原」の名前をもらい、藤原家はその後、長く長く平安時代を摂政として支配しました。

これ、めちゃくちゃロマンを感じませんか? 小山市にはこの藤原の血を引いた方が、それを知らずに今も生きているんでしょうね。

 

このあたりの歴史を語ると200000文字あっても足りないので、いろいろと省きますが、とにかく地元の歴史を知るのって面白いです。